幼年期・少年期

  • 出生~幼稚園時代
    • 両親とも文系の家庭に生まれる。
    • 母親が牛乳パックで様々な多面体を作ってくれ、多面体に興味を持つ。
    • 昆虫の図鑑をボロボロになるまで読む。名前のわからない虫はほとんど無かった。今はさっぱり覚えていないが。
    • 父親とザリガニ捕りに行ったり、虫捕りに行ったり、魚捕りに行ったりして楽しむ。
    • 幼稚園では鳥の羽根が大好きで、休み時間はいつも鳥小屋で羽根を集めていた。
    • 数字の不思議に目覚め、紙を繋げながら1から順に数字を書いていき、巻物を作成した。数字が1000を越えたあたりで、次の目標である10000までの労力の大変さを悟って終わりにした。
  • 小学校低学年時代
    • レゴブロックが大好きであった。
    • 金魚、フナ、ドジョウ、ザリガニ、バッタ、キリギリス、カエル、その他色々、様々な生物を飼う。
    • 定規とコンパスで模様を作図するのに夢中になる。
    • 朝礼や体育の時間に校庭で座っているときには、砂の中から綺麗な石を探すのが楽しみであった。もちろん先生の話は聞いていない。
    • 折り紙にはまり、オリジナルも色々と考案する。膨大な折り方をそらで覚えていて、何か折ってと言われて折れないものは無かった。しかし今はさっぱり覚えていない。
    • 母親が読んでくれた「大きな森の小さな家」と「大草原の小さな家」にいたく感動し、将来は自分で家を建て、自給自足の生活をしようと考えていた。
  • 小学校高学年時代
    • 科学の本を色々と読む。宇宙論や相対性理論について知る。将来は物理学者になって宇宙論を研究しようと心に決める。
    • 4次元について知る。我々の宇宙は、移動する4次元の球体と3次元空間と交わりだと考えればビッグバンが説明できる、などと考える。
    • 素数に興味を持ち、素数を発生する公式を探そうと努力する。
    • お小遣いを貯めて関数電卓を購入。簡単なBASICのプログラム機能も付いていて夢中になる。
    • 円周率に興味を持ち、円の面積を近似する多角形を求めようと方眼紙に半径5の円を描いたところ、円周が(3,4)と(4,3)をピッタリ通ることを発見する。それをきっかけにして三平方の定理を知る。
    • 電子工作にはまり、ラジオなど色々と作る。部品は買うと高いので、粗大ゴミの日に電気製品を拾ってきて分解して部品取りをした。粗大ゴミの日は前の晩から楽しみであった。
    • 化学史の本に感動し、水を電気分解して発生した酸素と水素に火をつけて爆発させたり、食塩水を電気分解して水酸化ナトリウムを作成したり、父親からタバコの吸殻を大量にもらって炭酸カリウムを抽出したりなど、身近な材料で実験を行う。
    • 学校で牛乳キャップの収集が流行っていた。牛乳キャップを賭けて鉛筆を振り、良い目が出たら払い戻すギャンブルの胴元をやっていたら、職員室に呼ばれ先生に怒られた。もちろん期待値はちゃんと計算。
  • 中学生時代
    • フェルマーの最終定理、奇数完全数の問題、双子素数など、整数論の未解決問題にはまり、あーでもないこーでもないと、色々考える。
    • パソコンに夢中になる。遊んだ機種はPC6001Mk2、PC8001から始まり、PC98シリーズへ。プログラミングは基本的にN88BASICを用いたが、マシン語もマスター。マシン語では、処理系の掛け算は1バイト×1バイト=2バイトのみであったが、組み合わせて固定小数点演算を実装し、マンデルブロ集合を高速に描画させたりした。
    • 学校の成績は、数学や理科は非常に良かったが、英語、国語、社会がボロボロで、合計では上位30%~50%くらいをウロウロしていた。

青年期

  • 高校生時代
    • 数学オリンピックを受ける。予選は突破したが本選で落ちる。何の対策もしなかったので当たり前といえば当たり前か。予選突破の賞状を改めて見ると授与者に藤田宏先生の名前があった。後に藤田先生の孫弟子になるとは、不思議な縁である。
    • 電気回路の設計に凝る。交流回路の理論に複素数が見事に使われているのを知って感動する。
    • 「初歩のラジオ」という雑誌に、設計した回路図が何度か掲載される。うち一つは、テスターが周波数カウンタに早変わりする変換回路であったが、他はどんな回路だったか忘れてしまった。
    • 自分と全く同じ原子構成の人間がもう一人いたとしても、自分の意識が自分とコピーを区別できるのはなぜか、という疑問から心理学や哲学に興味を持つ。
    • 高校時代の3年間は概ねコンピュータプログラミングと電子回路の設計制作に明け暮れる。そのときの興味からすれば大学は工学部かもしれないが、数学への憧れが湧き起こり、大学では数学を専攻することに決める。
    • 高校では、和算の研究で有名な小寺裕先生の授業が印象に残っている。非常に楽しそうに問題を解説するので、聞いている方も楽しくなってくる。小寺先生が東大寺学園の紀要に、ハムサンドイッチの定理の拡張?でお好み焼きの定理というのを書いていたのが面白かった。内容は当時としてはチンプンカンプンであったが。
    • 「大学への数学」のピーター・フランクルの宿題コーナーに13ヶ月連続で正答者として掲載された。東京出版からはバインダーが13冊くる筈が、4冊くらいしか送られてこなかった。でもピーター・フランクルさんからジャグリング用のお手玉をもらった。
  • 大学生時代
    • 授業が始まってすぐに数学の抽象化に頭が付いていかず、授業から落ちこぼれてしまう。線形代数をいきなりベクトル空間から始められても、頭に???が浮かぶばかり。しかし、いくつかの講義、特に複素関数論は面白かった。コーシーの積分定理や留数定理などに感動する。
    • 数論を学びたいと代数学を勉強するも、ごく最初の方、ネーター環のあたりでついて行けなくなってしまう。
    • 友人とガロア理論について自主ゼミをやったが、途中で脱落。
    • 2年生から3年生にかけて遊び呆けてしまい、ほとんど勉強しなかった。サークル活動とバイトの合間に麻雀ばかりしていた。2年生のときと3年生のときで、合わせて2単位しか取ってない。
    • 勉強もわからないし、理学部にいる意義が見出せなくなり、医学部を受け直そうかと考えたりもした。
    • たまに授業に出ても全く理解できず。しかし就職するにあたって大学院くらいは出ておこうと思う。やっぱり数学が好きなので、確率論と数理ファイナンスを勉強して金融機関に就職しよう、と思い、4年生の数学講究では渡辺信三先生のゼミを選択した。このときはこのゼミにいたことが人生に微妙に影響するとは思ってもいなかった。
    • ゼミではR. Durrett「Probability, Theory and Examples」を読んだ。ルベーグ積分すらまともに理解していなかったが、付け焼刃で何とかした。まぁ、何とかなったと思っていたのは自分だけかもしれないが。微妙な積分の交換とかは、よく分かってなかったが、とりあえずフビニの定理よりOKと言っておけば先に進むことができた。
    • 1年生のときと4年生のときで大半の単位を取ることになったが、卒業に関しては何とかなった。ドイツ語を2つも4年生の後期まで残してしまったのは危なかったが。
    • 大学院入試の勉強をしているときは、朝から晩まで数学の過去問を解き続けることができ、非常に幸せな時間であった。
    • 入試は、まずは数理解析研究所の大学院からであった。万が一こちらに受かった場合は、博士後期課程まで進学して研究者を目指すのが普通だと聞いていたので、その場合は、昔から好きだった数論をやろうと、伊原康隆先生のゼミを志望した。願書と同時に出す研究資料としては、自分が考案したメルセンヌ数を素数判定するハードウェアの設計図を出した。今から思うとかなり場違いな資料であるが、逆に先生方の興味を引いたのかもしれない。面接では4年のゼミで読んでいる本が何か答えられず笑われてしまった。大学院を受ける人は学部のゼミで読んでいる本のタイトルくらい覚えておこう。
    • 数理研の結果は合格だが、受け入れ教官は伊原先生ではなく河合隆裕先生であった。河合先生がおっしゃるには、君にあまりに基礎知識が無さ過ぎるため、伊原先生が受け入れに難色を示したので、ひとまず私が受け入れ教官になることにした、とのことであった。今後、伊原先生のゼミに出たり、他の先生と話をしたりして進路を決めればよいが、仮にどこにも行けなかった場合は私が責任を持って指導教官になるから、安心して下さい、と言って下さった。後から聞いた所では、筆記試験は1番だったそうだ。
    • 入学までの間、数理研の計算機を夜間も休日もいつでも使えるようにと、鍵を持ってなくても出入り口で他の人と一緒に入れるように、河合先生が書状を書いて下さった。今でも大事に持っている。
    • 合格が決まってからは、伊原先生のゼミに出たり、河合先生のゼミに出たりしたが、最終的には河合先生が岡本久先生を紹介して下さり、岡本先生の研究室に入ることになった。
    • 最初に岡本先生の所にお邪魔したときには、研究内容としてNavier-Stokes方程式の爆発問題の話なんかを数値計算結果のCGとともに見せて下さった。次にお邪魔したときに、自分もこういう研究をやってみたいと言うと、爆発問題は非常に難しいから今はやめておいた方がいい、そのかわり、極小曲面の数値計算もなかなか難しいけれども、もし出来れば面白いので、まず極小曲面について研究してみないかと言われた。そこで、数値計算に取り組むことにした。
    • この話を河合先生に報告したところ(この時点では、まだ岡本研に入ることは決まっていなかった)、西田孝明先生に会って数値計算について助言してもらうのがいいだろうということで、西田先生に会いに行き、数値計算の本を何冊か紹介してもらった。
    • 河合先生に、4年の講究でやっている確率論についての感想を聞かれ、確率論はつまるところ全測度1という制限の付いたルベーグ積分論だと思います、と答えた。確率論の人に怒られそうで、今じゃ軽々しくは言えない答えである。
    • この頃に印象に残っているのは、磯祐介先生の数値解析の試験で、解けた筈なのに不合格になっていたので理由を聞きに行ったことである。磯先生は答案を見て、君の解答は合っているけれども、ちゃんとした理論に則ってエレガントに解かないと意味が無い、解ければいいってもんじゃないんだ、と言われた。その上で、問題にあった、有界線形作用素と連続線形作用素の同値性の証明を黒板で解くように言われ、何とか解けたので単位を頂くことが出来た。その際、進路について聞かれて数理研の院に行くというと、そんな程度の知識だと今後非常に困ることになるから、しっかり勉強するようにと釘を刺された。
    • 院試の後は、卒業までひたすら数値計算の勉強とプログラミングに打ち込んだ。最初に差分法で熱方程式の数値計算をしてグラフが表示されたときには非常に感動した。グラフィックの表示には、プログラミングの練習を兼ねて、X-Windowシステム上で作動する3Dグラフィックスライブラリを作成。これはその後、博士課程くらいまで画像表示に重宝することになる。
    • 熱方程式の時間を逆に解いたところ、どんなに時間刻みを小さくしても解が計算できない、ということを河合先生に報告したら、なぜだかわかりますか?と聞かれた。その当時は理由など見当もつかなかった。
  • 大学院修士課程時代
    • ひたすら計算機室に篭って数値計算を行う。岡本先生の助言もあり、入学した年の秋頃にはJ.Douglasの汎関数を用いた極小曲面の効率的な数値計算法を発見する。また、その結果をその年の応用数学合同研究集会で講演することができた。
    • 極小曲面の関係で、土屋卓也先生と知り合いになる。土屋先生とは、その後、長い付き合いになる。
    • 応用数学合同研究集会では、兄弟子である坂上貴之さんが初講演を祝ってくれた。嬉しい思い出である。石渡哲哉さん、齊藤宣一さん、降旗大介さん、牛島健夫さん、笠井博則さん、矢崎成俊さんなど、一回り上の応用数学の若手の人たちとも知り合いになることができた。
    • 数値計算で結果は出たものの、理論面の理解は全然であった。覚えているのは、阪大の鈴木貴先生のセミナーに呼ばれて話をしたとき、極小曲面の方程式を弱形式を経由してJ.Douglasの汎関数に帰着させるところを曖昧に話していたら鈴木先生に突っ込まれてしまい、立ち往生してしまった。今なら何てことないのだが、その当時はバナッハ空間のバの字も知らなかったので、どうしようもなかった。勉強の必要も感じたが、何を勉強したらよいかも分からず、とりあえず研究結果は出ているので、そのままにしてしまう。
    • 岡本先生には、研究の面では特に厳しいことは言われなかったが、セミナーで発表するときに、西田詩さんがOHPの準備をして下さったのに、何も言わず発表を始めようとしたら、先輩が準備をしてくれたのに礼も言わないというのは何ごとか、人間が社会生活を送っていく上で、最低限、必要な言葉というのがあるやろ、と厳しく叱られたことが記憶に残っている。それ以来、肝に銘じている。
    • 修論は、極小曲面の話と、DE変換とFFTを用いて不定積分を高速に計算する方法の2本立てで書いた。修論審査会では、室田一雄先生に、DE変換の仕組みについて理論的にちゃんと理解できていない点を指摘され、数値計算が出来たらよいというのではなく、ちゃんと理論的な背景も理解しないといけないと苦言を呈された。
  • 大学院博士後期課程時代
    • 岡本先生の勧めで水面波の方程式であるNekrasov方程式の数値計算に取り組む。ほどなく、DE変換とFFTを用いて高精度に計算する手法を発見した。
    • この時期、数理研やその周辺には、坂上さん、石渡さん、齊藤さん、降旗さん、長山雅晴さん、大浦拓哉さん、長藤かおりさん、柳下浩紀さんなど、応用数学の若い方々が多く集まっており、色々な刺激を受けることができた。この中の何人かで数理研で自主ゼミをやったのが非常にためになった。一つ目のテーマとして中心多様体理論をやり、二つ目のテーマは、長籐さんが数理研に来られたのをきっかけに、中尾充宏・山本野人「精度保証付き数値計算」を読んだ。
    • この頃、岡本先生が、これからの応用数学で重要になってくるのは、精度保証付き数値計算と逆問題である、と言っていたのを覚えている。
    • 自主ゼミで精度保証付き数値計算を勉強したのをきっかけに、未解決問題であるNekrasov方程式の解の一意性の問題を精度保証付き数値計算で解けないかと思って色々とやっていたら解けてしまった。
    • 岡本先生から、アカデミックな就職の難しさをことあるごとに言われていたので、学会にはできる限り積極的に参加し、発表を行い、懇親会にも出席して知り合いを増やすことを心がけていた。
    • シドニーで開催されたICIAM2003で初の海外講演を行う。質問時間に聴衆の間で、精度保証付き数値計算による証明は証明と言えるのか、という議論になったが、水面波方程式の専門家であるG. Keady教授が、私は数値計算はしないので彼の計算が正しいかどうかはわからないけども、彼の数値計算結果を信じるならば証明は正しいし、私は彼の結果を信じる、とコメントしてくれた。
    • 数理研の修士の学生であった植田一石君と知り合う。彼とは何となくウマが合い、その後も長くお付き合いしていただいている。
    • Nekrasov方程式の一意性の証明では、かなり複雑な式変形や面倒な数値計算をしていたので(C++のプログラムは1万行近くの量になった)、博士論文にまとめるのに非常に手間取った。最後の一ヶ月くらいは徹夜続きで朦朧としながら論文を書き続け、最終的に締め切り日の事務室が閉まる5時の10分前に提出することができた。実際にはその後も審査会までに何回か修正して差し替えをお願いした。

壮年期

  • 九州大学PD時代
    • 最初の3年間は学振PDとして、その後の1年1ヶ月は21世紀COEプログラムの研究員として、九州大学の中尾充宏先生の研究室でお世話になった。同時期に九州大学の大学院生であった橋本弘治君や村川秀樹君とは仲良くさせてもらった。精度保証付き数値計算という縁で、早稲田大学の大石進一先生のところにいた荻田武史君と親しくなったのもこの頃である。
    • この時期の最初の数年間は、大学院時代から取り組んでいた、精度保証付き数値計算によるStokes極限波の一意性の証明に成功した他には、あまり研究が進展しなかった。京都で博士論文を書くのに精根尽き果てたとか、穏やかな土地柄に影響されてサボりすぎたとか、公募に出すものの落ちてばかりで精神的にまいっていた、等の理由があったと思う。
    • 川崎英文先生からは、君は実力はあるのにサボり過ぎだ、と飲みの席でお叱りを受けた。
    • 今まであまり数学の勉強をしてこなかったところに、中尾研ではSobolev空間がバンバン出てきて、カルチャーショックを受ける。あまりに当然のように関数空間が出てくるので、今さらH10って何ですか?などとも聞けず、急いで付け焼刃的に理解して何とかした。ただ、やはりこの時期の理解は不十分で、厳密な議論をしようとするには無理が多かった。
    • 中尾研の研究にはあまり貢献できなかったが、ある論文で、誤差評価定数を評価しただけで共著者に加えてもらい、恐縮した。
    • 有限要素法の誤差評価の研究に興味を持ち、ある限定された条件下で、非凸領域における精度の良い誤差評価を得ることに成功した。
    • 公募に片っ端から出すものの、どこにも引っ掛からずに鬱々とする。やってはいけないと思いつつも岡本先生へのメールでつい愚痴を書いてしまい、実力はあるんだから腐らずに頑張って研究するようにと励ましの返事をいただいた。
    • 学振PDが終わり、21世紀COEの研究員として、COE関係者ばかりが集まる建物に移ったのだが、みんな分野は違えども将来が見えないという点では共通しており、よく連れ立って飲みにいき、憂さを晴らしたものであった。河備浩司さん、篠原雅史さん、嶋田芳仁さん、丸野健一さん、須田庄さん、他、様々な分野の若手の人と知り合うことができた。
    • 長山さんから、自分で研究テーマを見つけられるようにならないと将来は厳しい、というようなことを言われる。確かに、極小曲面も水面波も岡本先生が提示してくれた問題である。この点については、自分でも痛感はしていたが、その当時はあまり対処もできなかった。
    • 4年間、公募に出し続けてもどこにも引っ掛からないので、あと1年で就職が決まらなかったら数学の道は諦めようと決意する。ちょうどその頃、知り合いから、ある分野に特化したSNSをベンチャーを起こして始めたいので、一緒にやらないかと誘われていた。もしそっちに行っていたら人生は全く違っていたかもしれない。
    • 今から振り返ると、この時代は、ちょうど応用数学の分野では人事が滞っていた時期であり、客観的に見れば、あと3年あれば人事も動き出して、かなり高い確率でどこかには就職できたような状況であった。そう言って励ましてくれる人もいたのだが、当時はなかなかそこまでは分からず、気休めにしか聞こえなかった。30代前半で将来が見えない焦燥感というのはなかなかキツいものがあった。
    • 金沢大学に就職が決まった。小俣正朗先生と長山さんが強力にプッシュしてくれたそうである。中尾愼太郎先生が渡辺信三先生のゼミの出身ということで、私が大学4年生のときに渡辺ゼミに所属していたことが微妙に影響したかもしれない、という話も後から聞いた。また、名前は明かせないが、選考過程で有利になるように、私が日本数学会の特別講演者に選ばれるように動いて下さった先生がいたと後から聞いた。ありがたいことである。
  • 金沢大学時代
    • 小俣先生や長山さんに色々とご迷惑をおかけしながらも、楽しく過ごさせていただいた。宮川鉄朗先生には、飲みに行くたびに、あのとき話してくれたあの問題はその後どうなった?と気にかけていただいた。
    • 甲斐千舟君と橋本伊都子さん、さらにGinder Elliott君とは家族ぐるみで親しくさせていただいた。
    • 講義で教えるため、はじめて偏微分方程式論を飛ばし読みではなく真面目に本を読んで勉強した。どう教えようか、という視点に立つと、論理に穴があってはならないので、きっちり勉強できてよい。実はそれまでは、シュワルツの超関数も弱解も、何となくのイメージでしかわかっていなかった。
    • 同じく講義のため、はじめて関数解析を真面目に勉強した。ここでようやく、中尾理論で用いられているSobolev空間論の枠組みについてちゃんと理解することができるようになった。実はルベーグ積分もよくわかっていない部分が多かったのだが、これもちゃんと勉強することができた。
    • 常微分方程式も、これまた講義のために、はじめてまともに勉強できた。
    • 長山さんが主催していたHMCセミナーで、現象数理の分野の人たちなど様々な人の話を聞くことができ、世界の広がりが感じられて非常に良かった。
    • 長山さんに、モデリングにも取り組んでみないかと言われたが、結局はそういう機会は無いまま時が過ぎてしまった。
    • 非凸領域における有限要素法の誤差評価について、かなり一般化した条件下で精度の良い誤差評価を得ることに成功した。この頃から、本格的に有限要素法の誤差評価に注力することになる。
    • 三角形要素上の補間誤差を上から評価する精度の良い公式を発見し、証明することができた。研究会で発表したところ、岡本先生から美しい結果だと誉められたことが印象に残っている。
    • 石村直之先生に誘われて南アフリカで開催された学会に参加した。ここで藤田岳彦先生と知り合った。藤田先生は渡辺信三先生の弟子なので、渡辺ゼミの大先輩ということになる。
    • 石村先生と藤田先生に誘われ、カンボジアのプノンペン大学で数学を教えるプロジェクトに参加した。夜、ホテルの近くの屋台で3人で鍋をつついているところで、お二人に一橋大学に来ないかと誘いを受けた。一応は家族と相談してからと答えたが、石村先生と藤田先生がおられる所なんだから楽しいに決まっていると、話を聞いた時点で心はほぼ決まっていた。
    • 一橋大学に講演に行ったときに高岡浩一郎さんと知り合った。高岡さんと飲んだときに、実は大変申し上げにくいのですが、と前置きされて、藤田先生が入れ替わりに中央大学に移られるということを聞いてちょっとびっくりした。
  • 一橋大学時代
    • 学生に教えるために数理ファイナンスについて色々と勉強した。
    • ゼミ合宿でバナッハ・タルスキーの定理について勉強。証明をちゃんと理解できたのは良かった。
    • 学生に教えるために統計学を勉強。数学とはまた違った統計学の思想が何となくわかってきた。
    • 商学研究科は(個別の教員同士は色々あるかもしれないが)全体としては非常にまとまりが良く、活気もあって居心地の良いところである。飲む機会も多くて気に入っている。高岡さん、中村恒さん、花崎正晴先生とは、特に、楽しくご一緒させて頂いている。